澤口雅彦レポート~さわレポ15~ — 人生初めての挫折 —

幼少期の話(さわレポ12 —もも、ぶどう、メロン、いちご―)の続きの話をしようと思う。

横浜に住んでいた私だが、卒園後に茨城県に引っ越しすることになった。
茨城にはいとこが住んでいたが、友達も一切いない土地に行くのは少し不安があったことを覚えている。入学式の当日、各クラスに分かれ整列すると、一人の男の子に言われた言葉など、なぜかその当時の記憶がしっかり残っている。

2年生の時に描いた絵

小学生の私

月日が経ち、私は小学4年生の時に本格的にサッカーを始めることとなった。
小学校のスポーツ少年団チーム。
そこに所属していた友達に誘われて、入団に至った。
それまでは3歳年上の兄とサッカーをしたり、学校の昼休みに一目散に校庭に出て友達とサッカーをしていた。
小学校のチームは県大会に出場することもあったが、決して強豪校ではない。
私の学年は13~14人の児童からなるチームで、下の学年もメンバーに入れて戦うチームであった。個人としては6年生の時に、茨城県を4つの地域に分けた選抜チームに選出された経験はあったが、大きなタイトルも取っていないし、個人の成績を残したわけでもない。

同じ地区にいる鹿島アントラーズのジュニアユースとは何回か対戦したし、熱戦を繰り広げ、時に勝利を収めることもあった。そんな経緯もあり、中学校入学のタイミングで鹿島アントラーズの関係者から、ジュニアユースのセレクションを受けてみないか?と誘われたのだった。

これがサッカーにおいても、人生においても転機になったことだと思う。

いざセレクションに参加すると、たくさんの子どもたちがセレクションに参加していた。
私のチームからは6人参加させてもらった。

私の記憶が確かであれば、一次、二次の試験からなるセレクションだったと思う。
第一次の試験内容は、運動能力を確認するテストとサッカーの基本技術を確認するテストが行われた。そこで数十人落とされて、第二次試験に移っていく。第二次は試合中心の内容になっていた。

同じ年代にも関わらず、客観的に見て実力差を感じた選手も中にはいたが、自分も必死に食らいつき自分のプレーを心がけてアピールしたのだった。
当時、自分のチームではストッパーというポジションで、ストッパーの後ろにスイーパーと呼ばれるポジションの人がいた。今でいうと3バックの真ん中がストッパーで、その後方にもう1枚ディフェンスの選手 スイーパーがいる感じだ。
ストッパーはディフェンスの選手でありながら、チャンスがあればミドルシュートを打ってゴールを決めたり、1対1に負けない特長をもちつつ、声も駆使してアピールしていた。

そして待ちにまった結果発表の日。

結果は不合格。
頑張った上での結果だったので仕方ない。
しかし、この後に衝撃を受けることとなった。
うちの小年団から4人が合格したのだ。6人受けて4人合格し、落ちた2人に私は入ったのだった。周りの友達に対して口には出さなかったが、とてもとても悔しい出来事だった。

ちなみに、以前のさわレポ8「—大切なもの—」で載せていた写真の私以外は合格した友達だ。
(私がどれかという問い合わせをいただいていたのに、発表してなかったので、この場を借りてお伝えすると、答えは右から二番目だ)

その後、4人は鹿島アントラーズのジュニアユースに入り、アントラーズのエンブレムがついた赤いユニフォームに袖を通すことになった。
私は…というと、中学校のサッカー部に所属することになった。
私の通った中学校は、進学校に進む十数人を除いては、小学校からそのまま中学校に進むことになっていた。進学校に進んだ1人を除いては、アントラーズに合格した3人と毎日顔を合わせることになるのだった。

つづく。


澤口雅彦
ファジアーノ岡山に2009~2018シーズン在籍し、2020シーズンをもってプロサッカー選手を引退。
2021年3月下旬に株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブに入社し、新設した『クラブコミュニケーター』として、事業部門、および普及スクールコーチを担務し、地域とクラブの発展に寄与する活動をしてまいります。


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