澤口雅彦レポート~さわレポ12~ —もも、ぶどう、メロン、いちご―

スクールが休講だったため、オンラインで「コーチと話そう!」を行っていたが、子どもたちの質問に答えたりする時間の中で、子どもたちと同じ年齢の時、私がどんなことを考え、どんな少年だったか、皆さんにも知ってもらいたいと思ったので、幼少期の頃について話してみたい。

私の家族構成は、父、母、以前の「さわレポ7-サインの起源―」で登場した三歳年上の兄と、一つ下の妹を含めた5人家族である。 まだ見られていない方は「サインの起源」もどうぞ!
(ちなみに、「サインの起源」を掲載した日の夜に、兄から電話があり、「ありがとう!」と言ってもらえたのだが、それに対して私は、髭を伸ばし、長髪の兄に「髭剃って、髪切れよ!」と指摘したのだった。笑 )

1986年の写真

幼少期は横浜に住んでいて、年中のタイミングで妹とともに幼稚園に通うことになった。
幼稚園には親に付き添ってもらい、歩いて通っていた私だが、甘えん坊の次男坊という感じだった。
恥ずかしがり屋な一面もあり、注目されたり、新しい環境の中でお友達に話しかけることなどは苦手な子どもだった。それは大人になっても人見知りではあるので、変わらないところなのかもしれない。

外で遊ぶことは好きで、とても活発な少年だったと思う。
兄弟同士は仲が良く、よく一緒に遊んでいた。
サッカーをしたり、かくれんぼをしたり、新聞紙を丸めてチャンバラごっこをしたり、時には泥遊びをして、全身泥だらけで帰ったこともあった。

少し引っ込み思案な私も、外で遊ぶことになると、なぜか勇気が湧くというか、積極的になり、幼稚園の休み時間には友達を引き連れて遊びに行くのだった。

地域の子どもたちが集まる体操教室に通っていたこともあった。
知らない子どもたちが体育館に集まり、ボールを使って遊んだり、跳び箱や、マット運動をしたり、楽しんでやっていた。知らない子どもたちが集まる環境でも楽しめたのは、スポーツの持つ力が、人見知りで引っ込み思案な私を動かしてくれたのではないかと思う。

運動会のかけっこは常に1位で、先生には将来オリンピック選手だねと言われていたこともあった。
両親が撮ってくれたホームビデオには運動会の様子が映っており、小さい頃から下半身がしっかりしていて、安定した走りができている私がいた。
当時からお尻は大きく、兄のおさがりのズボンは入らなかった。(笑)

幼稚園のお遊戯の発表会では、インディアンの格好をしてダンスを踊ったり、海賊の船長になり、子分の中心で側転を披露したのだった。

バレンタインの時には、園児が教室に待機しているなか、私だけ先生に呼び出され廊下に行くと、先生の協力を得た女の子からチョコレートをもらうといった甘酸っぱい思い出もあった。

そんな幼少期の夢は果物屋さん。理由は果物をたくさん食べたいから。幼少期の夢が私をフルーツ王国、岡山に引き寄せたのかもしれない。(笑)

こんな純粋な理由から夢見た果物屋さんだったが、サッカー選手になるという夢に変わったのは、その4年後のことだった。
(続く…)


澤口雅彦
ファジアーノ岡山に2009~2018シーズン在籍し、2020シーズンをもってプロサッカー選手を引退。
2021年3月下旬に株式会社ファジアーノ岡山スポーツクラブに入社し、新設した『クラブコミュニケーター』として、事業部門、および普及スクールコーチを担務し、地域とクラブの発展に寄与する活動をしてまいります。


おすすめの記事